土方歳三がいつの間にか「鬼の副長」と呼ばれていた経緯
土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていた?
誰も見た事のない記録を求めて、素人が調べた自由研究です。
- 呼ばれ始めたのは昭和から。当時の評価は?
- メディアや創作の与える影響
- インターネットの普及で爆発的に広がるミーム
目次
序文
はじめまして。
新選組に関して何となく資料や史料を読むようになって2年の一般人です。
新選組を聞きかじったことのある方なら恐らくかなりの確率でご存じであろう「鬼の副長と恐れられた土方歳三」のフレーズ。
自分も当初は「内部粛清とか局中法度とか、怖い人だったんだろうな」くらいの気持ちで居たのですが、資料や史料を読み込むにつれて「本当に呼ばれていたのか?どこにもそのような記述がない」と疑問を持ち始めたのがこの記事を書くきっかけです。
彼が実際に隊士たちから恐れられていたのか、鬼の副長と陰ながらささやかれていたのか、素人の調査ですがお付き合いいただけますと幸いです。
最初に「鬼の副長」のフレーズが使われたのはいつか
主に調査に利用したのは、国会図書館サーチです。
■鬼、土方歳三で検索(2019年5月28日現在)32件
簡易検索結果|「鬼 土方歳三」に一致する資料: 32件中1から15件目|国立国会図書館サーチ
■鬼の副長で検索(2019年5月28日現在)4件
簡易検索結果|「鬼の副長」に一致する資料: 4件中1から4件目|国立国会図書館サーチ
意外と少なくて驚きました。上記が全てではないと思いますが、基準として見ていきます。
特集人物往来(1957-09)
上記の中で一番最初に「鬼の副長」のフレーズが見られたのが以下の記事でした。
特集人物往来 (人物往来社): 1957-09|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
1957年(昭和32年)新人物往来発行の「特集人物往来 9月号」に掲載されている「新選組の鬼・土方歳三の生涯――幕末の京に鬼と謳われた土方新撰組副隊長の奇しき生涯を描く / 土方やすし / p66~71 (0035.jp2)」という記事です。
こちらの記事の内容は土方家のご子孫の方が書き残しているものですが、石田村でのエピソードから始まり、簡単に上洛から函館までの内容に触れるもので特に土方の厳しさを示すエピソードは紹介されていませんでした。記事の締めに下記の言葉があります。
ふつう世に新選組が語られる場合、維新の志士達を虐殺した血も涙も無い非道な人間共として指弾されているが、土方一族の中にもこれを気にして、自ら子孫を名乗る事を遠慮するものが多かった。
現在の研究結果とは大きく異なり、昭和32年時点では、新選組に関してこのような評価がされていたことが伺えます。
特集人物往来(1957-11)
また、同年に発行された、
特集人物往来 (人物往来社): 1957-11|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
1957年(昭和32年)新人物往来発行の「特集人物往来 11月号」に掲載されている「読者のページ 剣鬼・土方歳三の最後 / 中村純三」に関して、こちらは読者のページとある限り、読者からの投稿型の記事かと思われます。内容もほぼ小説風となっており、史料的な読み方は出来ないものの、下記のような記述のされ方をしていました。
歳三という人物が一般的に与えている印象は、参謀型で陰うつ、どちらかと言えば策略家に近い男のように受け取られている。
こちらについては新選組ではなく土方に対しての評価となっていますが、この評価の元となっているのは何なのでしょう?次は史料とフィクションを交えて調査していきます。
当時の人間からの評価
では実際に「幕末を生きてきた」当事者からの評価はどうなっているのでしょうか。
これに関しては「史談会速記録」と「各種日記」を当たる事にしました。
史談会速記録
史談会速記録ってなあに?という人は下記をご覧ください。
史談会速記録の索引表が下記です(ご入用の方はご自由にお使いください)この項目表を見てもわかるように、近藤勇に関する記事が23件あるのに比例し、土方歳三の記事は11件と半分ほどしかありません。
史談会の中で土方の評価として見受けられるのは、史談会速記録1「明治元年戊辰奥羽連合白石會盟に係る前後の事実」二本松藩士 阿部井盤根の榎本が土方を奥羽越列藩同盟の総督に推した時の土方の言葉、
土方曰く大任ではありますが素より死を以て盡(つく)すの覚悟で御座れば各藩のご依頼を敢えて辞しませんけれども
是れを受くると受けざるとに於ては一応御尋申さなければならんが苟(いやしく)も三軍を指揮せんには軍令を厳にせねばならん
若し是を厳にするに於て背命のものがある時は御大藩の宿老衆と雖(いえど)も此の歳三が三尺の劔(つるぎ)に掛けて斬って仕舞はねばならぬ
去れば生殺与奪の権を総督の二字にご依頼とならば受けますが其邊(そのへん)は如何なものでありませうか
寄せ集めの軍を正しく機能させるためには、それなりの緊張感を持って指揮をしなければならないと悟った土方の「軍令に背いた者に関する生殺与奪の権を頂けるのならば受けましょう」が厳しい一面と見ることが出来ます。総督の件は保留となっており、実現したかどうかまでは史談会の記録では判明していません。
他の史談会速記録として、新選組にも一時期在籍していた御陵衛士の「阿部十郎」「篠原泰之進」「加納鷲雄」、土方の小姓を務めた「田村銀之助」、箱館戦争で軍医として活躍した「高松凌雲」の土方に対しての人物評は見受けられませんでした。
新選組始末記(西村兼文)
当文献を読んだことのある方はご存じかと思いますが、新選組に対しての酷評は暇がありません。中でも苛烈なものは油小路事件の際の近藤土方に対する評価です。
しかしこれは西村が伊東と懇意にしていたような表現もあるため、妥当なものかと思われます。
新選組始末記(子母澤寛)
史料ではなく小説なのでフィクションとして数えるか難しい部分なのですが、当時の人間に調査した記録とのことで記載します。
陣中における勇の挙止はすこぶる謹厳を極め、一同に対し厳重な法度書を布告した
近藤に対して厳しいと書かれている描写がありましたが、土方に関しては見受けられませんでした。
浪士文久報告記事(永倉新八)
厳しかった、恐れられていたを彷彿とさせる記載無し
新選組顛末記(永倉新八)
こちらは永倉が晩年に新聞記者に語ったことをさらに新聞記者が編集している為、半分フィクションのようなものですが記載しました。土方ではなく新選組の、強いて言えば近藤に対する評価と取れます。
島田魁日記(島田魁)
厳しかった、恐れられていたを彷彿とさせる記載無し
戦友姿絵(中島登)
性質英才ニシテ飽迄剛直ナリシカ、年ノ長ズルニ従ヒ温和ニシテ人ノ帰スル事赤子ノ母ヲ慕フカ如シ
若い頃は英才剛直だったが年を経て優しくなって皆に母のように慕われていた、との評価。
「年ノ長ズルに従ヒ」に関してですが、中島登は元々八王子出身で天然理心流の門人(試衛館ではなく八王子の理心流)であり、土方とも多摩時代より面識があった可能性を考えると「京都時代」ではなく「上洛前」を指している事も考えられます。
入隊時期もはっきりとは分からない(入隊前に多摩で情報収集活動などを行っていたという話も。中島登覚書は勝沼の戦いから始まっています)ため、京都での土方の人柄と言い切れないのが理由です。このあたりは憶測の為、新たな史料やご指摘がありましたら補足していきます。
函館戦記(大野右仲)
348コマ目からの函館総攻撃の下り、
歳三大喝曰、此機不可失、令士官隊而速進、然敗兵難卒用、吾在此柵而斬退者、子率而戦
一本木関門を死守するにあたって、土方が味方を鼓舞するシーンの「吾この柵にありて退くものは斬る」ですが、11日の戦況からして無理ならざる発言となってきます。(直後に土方は戦死)
立川主税戦争日記(立川主税)
厳しかった、恐れられていたを彷彿とさせる記載無し
夢乃うわ言(望月光蔵)
厳しかった、恐れられていたを彷彿とさせる記載無し
會津の清水屋で枕を投げられた事などが載っています。
贈友談話(相馬主計)
厳しかった、恐れられていたを彷彿とさせる記載無し
渋谷十郎事績書(渋谷十郎)
松前藩士、渋谷十郎の記録で土方や松平太郎らと会談した部分が記されています。
歳三艶然トシテ曰ク然ラハ則ケ尓稜戦ハンカ余思ラク…
「艶然トシテ」の部分が「艶然」ではなく「佛然」とされている資料もあり、後者の場合だと「カッとして」「怒って(顔色を変えて)」のような意味合いとなる。
上記史料、記録を見ていくと、「戦中の指揮官の振る舞いとしては妥当であり、とびぬけて厳しくもない」という印象です。むしろ局長、近藤について厳粛である描写が目立ちました。
では何故鬼役が近藤から土方へとシフトしていったのかを、今度はフィクションの視点から追っていきます。
フィクションの功罪
土方の有名なキャラクター付けと言えば「司馬遼太郎」で皆さま良く「そんなのもう知ってるよ」とおっしゃられるかと思いますが、新選組自体のフィクションは司馬遼太郎以前にも多く、また描かれ方も司馬前後で大きく異なってきます。
司馬遼太郎前のフィクション
新選組に関する創作というものは現在ほどではなくとも明治期から存在しており、創作の形は講談、読み物、映画を経て増えていきます。
【講談】幕府名士近藤勇(松林伯知)1897年2月
明治30年以前に語られたものを速記で書き留めたとみられる講談本。
主人公はタイトルの通り近藤で、土方は近藤の支えとして登場します。近藤が若い頃は腕白小僧、歳を経て鬼神のように新政府に恐れられる人間として書かれる一方の土方のキャラクターは控えめで、武よりも文を嗜む描写をされていました。
【小説】鞍馬天狗(大佛次郎)1924年~
一途に精悍な気性の近藤と並んで、新選組の知恵袋といわれた土方歳三である。
――小鳥を飼う武士
土方歳三は、この晩、新選組一流の集団的攻撃法を捨てて、袋穴へ追い込んだ敵を、猫が鼠を弄ぶように、じわじわ死地へ陥れる計画を立てたらしい。
――小鳥を飼う武士
いつ来たものか、近藤勇が5,6人
の部下を連れて入ってきたのでした。その声は荒々しく、目には憤怒の火を宿していたのです。
鬼と言われた隊長の声に~
――角兵衛獅子
元来近藤勇という人は主義の上から勤王党にとっては恐ろしい敵でしたが、気性は清潔な、心持ちの至って清い人物だったのです。
――角兵衛獅子
新選組の統領、鬼と言われた近藤勇を恐れなかったのも、そのためでした
――角兵衛獅子
「強いなぁ」「一人だけであの人数を」「鬼神とはああいう御仁のことだろう」「人間技ではない」(中略)近藤はもう、半ば揶揄い気味に相手の必死の剣をあしらっているばかりで
す。
――角兵衛獅子
鞍馬天狗を捕らえる事に情熱を燃やしながらも、好敵手として正々堂々挑む近藤の廉潔さを引き立たせるためか、土方にはやや損な役回りがあてがわれていました。
まだキャラクターとしての固定が無く、話ごとに人物像にブレがあります。また、この時期はまだ「鬼」と呼ばれているのは近藤の方でした。
【映画】新選組鬼隊長1954年
子母澤寛の「新選組顛末記」を基に描かれた白黒映画です。
タイトルに「鬼」とつきますがこちらは近藤を修飾する語になっています。
司馬遼太郎後のフィクション
新選組血風録(司馬遼太郎)1964年
もっとも、隊士の中には土方の陰険な性格を憎む者は多かったが、そういう者は、近藤を慕うのが通例で、そのためにこそ隊の団結が保たれていた。
――油小路の決闘こういう近藤、土方の恐怖による統率が~
――油小路の決闘土方が御陵衛士殲滅の策を練る描写
――油小路の決闘かれには組織を作る才能があった。むかし三多摩の農村を歩いて剣術好きの若者を勧誘してきては近藤の道場に入れ、田舎憲法ながら天然理心流をその地方ではやらせたのも、彼の功績でった。
――芹沢鴨の暗殺京の市中は、新選組をむかえてその横行を猛虎のように恐れたが
――芹沢鴨の暗殺新選組では、才子肌の男は、近藤、土方の手でほとんど殺されている。
――池田屋異聞土方の頭脳、行動は、時々常人では測れなぬほどに俊敏なところがある
――池田屋異聞武田を処分するために策を練る描写
――池田屋異聞しかし土方は常に隊士に対しては、石のように無表情な男だった
――虎徹土方という統率好きの男にとっては
――槍は宝蔵院流隊で「政治いじり」をしたかつての創立以来の同志は、みな土方の粛清に遭った。
――四斤山砲
燃えよ剣と並んで有名な司馬遼太郎の作品になります。
目立つ部分を抜き出した限りですが、冷徹な土方のキャラクターの元となる描写が散見されます。
燃えよ剣(司馬遼太郎)1964年
新選組を齧った事のあるかなりの方は読んだことがあるのではないかという「燃えよ剣」(2020年にまた映画化されるそうですね)新選組血風録と並んで有名な小説ですが、良く言われる「土方が局中法度を作った」や「武士に憧れて上洛した」「隊士に恐れられる冷徹な土方」「伊東甲子太郎とのライバル関係」「百姓が武士に成り上がる物語」……等々、枚挙に暇がない事柄は前項目で上げたように史料中には記載が認められず、小説の「設定」であると言い切って問題ないものでしょう。(また大河における大鳥圭介の扱い等も燃えよ剣の流れを汲んでいるように感じます)
「歩兵の連中などは、あれが新選組の鬼土方か、というのでひどく人気がありますよ。かの人の参加で、士気が上がっています。やはり、当節の英雄というべきでしょう」
現代の価値観から俯瞰して見ると、昭和という時代の価値観なのだろうなと思う部分が多々あり、今でも根強く「幕末の世界観」として頑なに昭和観が上書きされているのは作品の人気の高さの無しえる技でしょうか。
新選組血風録(ドラマ)1965年~66年
司馬遼太郎の小説のヒットを受けて作成されたドラマです。(未見)
土方役に、映画版でも主演を務めた俳優の栗塚旭さんが抜擢されています。
土方歳三 燃えよ剣(映画)1966年
主演、栗塚旭さんで映像化された燃えよ剣になります。
この項目に関しては未見の為、詳細は省きますがめったな事では笑わない、ニヒルでクールな土方像を演じきった栗塚氏は好評を博し、こちらも昭和の土方像を大きく印象付けるものとなったようです。
近藤勇白書(池波正太郎)1969年
近藤勇を主人公として焦点を当てた池波正太郎の作品です。
良くも悪くも人間味溢れる近藤と、物語の風通しを良くするように立ち回る永倉(池波先生は永倉が好きなのですかね?)に対して、やや印象の薄さも感じる土方ですが「新選組を作り上げた」という司馬土方の大筋はなぞっています。
大河ドラマ「新選組!」2004年
司馬遼太郎が「昭和」の新選組観のベースとなった作品であるとするならば、こちらは「平成」の新選組観のベースとなった作品と言えるでしょう。
司馬遼太郎が土方とその他大勢、という書き方をしたのに対し三谷幸喜は近藤勇を主人公に据えて多くの隊士たちにスポットをあてた群像劇として作られていますが、局中法度を作成する土方の下りや山南や伊東との対立などは司馬作品の影響を受けている部分も見受けられます。
繰り返しになりますが、史料には記載が見受けられず作品の「設定」として作られたものです。
下記グラフを見ていただいてもわかる通り、NHKの大河という事もあり、2004年(詳細には発表のあった2003年)を境に新選組関連書籍の発行部数が約6倍と恐ろしい事になっています。(2002年は22冊、2003年は123冊、2004年は150冊でした)
2003年以降の発行書籍は大河の「設定」を踏襲して作られたものが多く存在し、史実との混同を注意しなければなりません。
インターネットで加速するミーム
戦後や昭和後期の資料や創作を経て、インターネットが個人の手の届く範囲にやって来ると、また情報の伝達スピードが桁違いに上がってきます。
wikipedia
2003年12月27日にwikipedia「土方歳三」のページが作成されます。大河放映の直前です。
2004年1月12日に燃えよ剣をベースにした「局中法度」に関しての追記が発生しています。大河ドラマ1話放送の翌日です。
2004年11月20日に「局中法度」に関しての項目で「土方が考案した鬼のような内容だった」との追記がされます。
2005年1月10日に「局中法度」の項目に
「陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ普段は冷酷な人物とされる。」
とここで初めて「鬼の副長」の単語が現れました。以降2019年5月12日の修正までの14年間に渡ってwikipedia上に該当単語が存在していました。
土方歳三を調べる際、まずwikipediaを参照するユーザーも多く、多数の閲覧者に対して燃えよ剣をベースとした土方像を印象付けたものとなります。
WebページやSNS
検索エンジンやSNS等で検索していただけるとわかるかと思いますが、「土方歳三」と検索すると必ずと言っていいほど「鬼の副長」もセットでついてくるのが現状です。
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=all&geo=JP&q=鬼の副長
上記はGoogleトレンド(検索キーワードの傾向からMAXを100として今までどれくらいの比率で該当のワードが検索されてきたかを見ることが出来るサービス)の結果です。
データを追う事が出来るのが残念ながら2004年の1月1日からなのですが、見ていただいて分かる通り大河が放映された2004年がMAXの100を記録し、以降は2006年の正月ドラマや人気フィクション作品のリリース等を経て、ピーク時の1/4ほどの検索推移を保っていました。
wikipediaの項目でも述べたように、現在は文献に当たるよりも先にネットの情報に目を通す方が大多数です。そのような方々が最初に目にするのが「鬼の副長」と呼ばれる土方の姿であれば、基本知識として刷り込まれてしまっても無理は無い事なのだと感じます。
まとめ
資料、創作、インターネット上の情報を見てきた結果、
- 初期は新選組自体、または局長である近藤が鬼と呼ばれていた
- 司馬遼太郎の創作を通過し、鬼の役割は土方に移動
- 創作設定が後世の作品群に引き継がれ、さらに大河によって爆発的に認知
- 創作で作られた設定が大河を切欠に書籍や後続作品やインターネット上に飛び火
と昭和期に作成された創作でのキャラクター像が今でも払拭されずに居残り、拡散し続けているのが現状と言えるのではないでしょうか。
幸い、ここ十数年で様々な新史料の発見、研究者の方々のたゆまぬ研究の結果沢山の新しい事実が明らかになっているのも事実です。
史実、という言葉は様々な史料や資料をすり合わせ、研究の末にやっと結論が出せるか出せないか、という大変な作業の上に成り立っている事柄です。例えば「浪士文久報告記事」が存在すること自体は事実ですが、その中に書かれていることがおしなべて「史実」とは言えない様に。
私は史学を専門で学んできた身ではないので受け売りですが、史料や資料を読むことは「解釈」だととある先生に言われました。そこに書かれている事は「事実」でも「真実」とは限らず、また創作に至っては作者の「解釈」に他ならない、と。
思わず「史実では~なんだよ」と誰かに口に出したくなる気持ちもわかりますが、一度落ち着いてそれは本当に史実であるのか、今までいろいろな方たちが積み上げてきた研究結果をないがしろにするものでは無いのかを考えてもらえれば筆を執った甲斐があります。
今回「鬼と呼ばれた事実が無い」という事実(ややこしい)を探すために、本当に無いのか、を可能な限りの資料を当たって探すこととなり「無い」事を探すのは「有る」事を探すものの何倍も大変なのだと思い知りました。
まだ調査が甘い部分、私自身「鬼などと呼ばれていないのだ」という偏った視野により、偏った記事になっている部分も多いかと思います。今後もこちらの記事や調査につきましては随時補足、修正していく所存です。
こんな記事がある、こういった史料や資料がある、鬼と呼ばれていた事実がある、何でも構いません、ご意見等ある方はコメントにてお寄せください。可能な限り調査とご返答をさせていただければと思います。
この記事を以て、後の興味を持った方の労力を少しでも緩和出来ることを祈りまして、〆とさせていただきます。
拙い自由研究にお付き合いくださりありがとうございました。
おまけ
「たまごふわふわは近藤勇の好物」…も大河発祥のフィクションだぞ…!
ここまで書いておいて筆者は近藤先生が推しです…!
参考資料
- 史談会速記録(原書房)
- 新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む (PHP新書)
- 永倉新八 新選組顛末記(中経出版)
- 小笠原壱岐守長行(小笠原壱岐守長行編纂会)
- 西村兼文 壬生浪士始末記/新選組始末記
- 子母澤寛 新選組三部作(中公文庫)
- 相馬主殿回想録(日野市立新選組ふるさと歴史館)
- 渋谷十郎 渋谷十郎事績書(函館市立中央図書館アーカイブ)
- 新選組資料集コンパクト版(新人物往来社)
- 流泉小史 新選組剣豪秘話(新人物往来社)
- 佐藤彦五郎日記(日野市)
- 小島日記(小島資料館)
- 大佛次郎時代小説全集 鞍馬天狗1~5(朝日新聞社)
- 司馬遼太郎全集6燃えよ剣(文藝春秋)
- 司馬遼太郎全集7新選組血風録(文藝春秋)
- 松林伯知 幕府名士鼓動勇(演芸社)
- 特集人物往来(新人物往来社)
- 歴史と旅(秋田書店)
- 宮地正人 榎本武揚と土方歳三(山川出版社)
- 没後150年特別展「土方歳三-史料から見たその実像-」(日野市立新選組ふるさと歴史館)
調査結果ファイル(作成途中)
謝辞
資料の読み込みを手伝ってくれた友人たち、また新選組、幕末に関しての知識をご指導くださった諸先生方、誠にありがとうございました。
2019年6月6日 記事作成